天理教愛昭分教会
天理教愛昭分教会

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プチ天理教愛昭分教会史

昭和3年7月25日、西海兵三先生を初代として、当初は「愛昭宣教所」として誕生しました。しかし、その後上級の手不足のため御用がだんだんと多くなり、昭和16年の天理教教規改訂により名称変更した「愛昭分教会」は昭和17年2月27日、花井義雄先生が二代会長として理のお許しを戴きました。

ところが、昭和20年4月7日の午前11時、空襲により建物は全焼。翌21年に御分霊再下付のお許しを戴き、移転した先では2畳の間に2名、6畳の拝殿に会長夫妻、8畳の間に5名が…と、3部屋で9名が寝起きを共にしていました。月次祭は障子を全て取り払い、信者で身動きが出来ない状態でありながらも、熱気に溢れ、現在の当教会の所在地を御守護いただくと、開拓ひのきしんが始められると共に、尚も、教勢は伸び広がりました。

昭和28年には、初の部内教会が設立し、その後、昭和32年には7ヶ所の部内教会が、昭和40年に1ヶ所、昭和42年に3ヶ所、…と、日に々々教勢は伸び栄え、昭和44年4月26日には、三代会長として花井春國先生が理のお許しを戴きました。

その翌年、昭和45年には高安大教会の神殿普請が打ち出されました。親会長である義雄先生は親柱の献木を心に定め、愛昭部内一丸となって日夜おたすけに奔走していました。そんな中、義雄先生は病床についてしまうのです。



+ 出直し +
 天理教では「死」を「出直し」と呼びます。


その僅か2年後の昭和46年3月6日、27年間二代会長としておつとめくだされた花井義雄先生が、献納される親柱を目にすることなくお出直しになられました。この時の、陰日向となり永年支えてきた親奥様、花井まさ先生の悲しみは計り知れないものであった事でしょう。しかしながら、熱気は冷めることなく、親柱の献納は勿論の事、昭和46年には2ヶ所の部内教会が、翌年には更に2ヶ所の部内教会が設立されました。

ところが、二代会長花井義雄先生の十年祭が滞りなくつとめられた翌年、昭和 57年3月2日、三代会長 花井春國先生が高安大教会神殿奉仕の帰途、伊賀上野にてお出直しになられるという思いもかけない出来事に直面するのです。

同年5月26日、悲しみも癒えきらぬ中、四代会長として、妻・花井君子先生がお許しを頂きます。会長である夫の出直しから僅か2ヶ月半、この時の君子先生の心情は他人が察する事が出来ぬほど複雑であったに違い有りません。しかし、その翌年には思いもかけぬ喜び事が舞い込んでくるのです。それは、三代真柱様の御巡教。昭和58年5月20日、当時の先生方、先輩方はこの日のことを忘れることは決して無いでしょう。また、喜び事が喜び事を集めているかのように、昭和61年10月には後継者である長男・基弘が沓脱信代さんとの結婚、昭和63年には創立60周年記念祭が盛大に執り行われました。

時は流れ、年号は「平成」と変わった6年目、日頃「病むほど辛いことはない、わしもこれからひのきしん」と説いてきた花井まさ先生が、ふとした拍子に躓かれ、そのまま床に臥せってしまいました。その後、家族を始め信者は身の回りのお世話をさせて頂いていましたが、僅か3ヵ月後、感謝の言葉を残し、眠るかの如く静かに息を引き取られました。享年96歳。奇しくもその日は5月15日、「全教一斉ひのきしんデー」の日でした。

同年7月には更に1ヶ所の部内教会が設立。翌8年にも1ヶ所設立し、同年9月26日は花井基弘先生が五代会長のお許しを頂きました。平成14年には、初の孫にあたる部内教会が設立し、全部内教会数20ケ所となりました。

設立した昭和3年から現在まで、様々な出会いと別れを経て、そして、愛昭分教会は、間もなく80周年を迎えようとしています。

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