現在の鼓笛バンドの前身は管楽器 3〜4 本、ドラムはバスドラ 1 本、スネア 2 本といった行進曲バンドでした。ただし、今のバンドと違い華やかなものではなく、制服もありませんでしたので、上はハッピ、下は普通のズボンといった有様でした。練習日はヒマがある時だけ、ヒマがなければ1ヶ月〜2ヶ月もありませんでした。メンバーは 9 割が教会住み込み者でした。練習は会長様、またはおかあさんのお許しのある日のみ。
人数は 8 名〜 10 名くらいと思われます。練習場所はおもに教会の外、雨の日は、今はもう無くなった新館信者詰所玄関を入ったすぐ左側の部屋でした。
昼食は他の住み込みの方と同じ昼食で、特にその時代においしくいただいたメニューは、お米が入った雑炊、それ以外はサツマイモをふかしたものが多かったと記憶しています。もうこのとき、神殿普請を目前にしていた愛昭は、信者一同神殿普請に向かって身も心も一生懸命でした。ですから、鼓笛にお金を出費すること自体、考えられないことでした。
そんな中、現在の育成部(青年会、少年会、学生会、鼓笛バンド)に特に心をかけてお育て下さったのは、花井義雄会長様(二代会長)でした。現在の少年会の前身は、20 日の月次祭のお話の時間に神殿で子どもたちが騒がないようにと、子どもたちを集めて紙芝居や幻灯、ゲームなどをしたのが始まりでした。そういう子どもたちがよく集まってくれるようになった頃、昭和 30、31 年頃に会長様から鼓笛隊を作るよう言われたと記憶しています。
小川忍
昭和37年から38年にかけての克明な子供会活動記録が残されていました。当時の状況を生き生きと知ることができる貴重な資料です。記録者は既に出直された原田真知子(旧姓上野)さんです。活動記録の中から親会長様(二代会長花井義雄先生)の当時の係員への講話と当時の子供会行事を紹介します。
昭和37年度 こどもおぢばがえり世話係員打合せ会
会長様子供部屋へおいで頂き、一同と共に話し合いの時間を作って頂いた。
会長様お言葉
顔見知りの子供が少なく、ほとんどが初対面の子供たちなので、しっかりと世話をしていただくように。
将来の子供会の行き方について
一時的なものでなく、永久的に続けてますます伸ばして行く上にはどうすればよいか、それぞれに考えてほしい。将来どんな立場、どんな状態にあっても、いつもこの子供会を忘れずに心に留めて、気軽に立ち寄って行くといったものに育て上げてほしい。
- その点についてこのような会合を毎月行うようにしたい。
- クラブ活動の出来る方向にもっていく(楽しみを持つこと)
いつまでも下積みの人生でなく、人の上に立てるような人間にならなくてはいけない。それには日々一つの信念をもって行動出来る人でありたい。自己のいんねんに負けないようにする。それには日々数多く、耳からしっかりと声を聞いて、心身共に実行して自己のものに消化して行くことが大切である。
この土地へ初めて立ったとき、何を考えたかと言えば、この広い土地に愛慈園や子供の遊園地を作り、子供会などもやりたいものと思った。そんな矢先、荒川さんが専修科を卒業してまもなく自発的に子供会を育成したいと、子供会を作ることに力を入れてくれて、今日この子供会の姿になるまでは、幾多の避難、悪口、荒波を乗り越えねばならず、まことにけわしい道であった。しかし私は一度も「ごくろうさん」「よくやってくれた」…等のねぎらいの言葉一つもかけてやらなかったが、その中よく心くじけず今日までがんばってくれた。後からその姿を眺めて、よくその状態を知っていた。いつまでも荒川さんにもたれていてはいけないので、みんなめいめいが一手一つに協力しあって、よい点をどんどん伸ばして、なお一層よりよき子供育成の上に努力してほしい。
教会住み込みと外部の人たちとの心のつながりが乏しいという点について、サンドイッチ、汽車の心でありたい。つまらないつまらないで終わらず、お互いに向上心があってほしい。一つの楽しみとなるまで、研究を重ね努力をしてほしい。
男子…ブラスバンド。女子…コーラス等、どうか。
昭和 36 年には現在の神殿が落成した。東山から先で一際目立つ建物であった。しばらくは子供たちには縁が無かったが、その後、神殿正面左地下室が練習場となり、合宿時の宿泊場所ともなった。パート毎の練習は、神殿周りや新館など、昼食後の休憩には教会付近の東山公園が遊び場であり、午後の練習が始まっても多くの隊員たちが山から戻ってこないこともしばしばあった。曲の練習ばかりでなく、子供向けの教理の時間もあれば、ゲームの時間もあった。
昭和30年 | 愛昭鼓笛隊発足 こどもおぢばがえり初参加 |
昭和34年 | こどもおぢばがえりに再度参加 以後毎年参加するようになる |
昭和35年 | 団旗完成 |
名古屋市公会堂にて鼓笛演奏 | |
千種区子供会芸能発表大会にて鼓笛演奏 | |
昭和36年 | 現神殿新築落成奉告祭 |
昭和37年 | 「街を美しくしよう」子供会パレード |
第一回 愛知教区鼓笛コンクール |
昭和40年代に入り、神殿南側にあった倉庫三階が鼓笛隊の専用室となった。楽器庫や事務スペースも確保されることとなった。ただし、天井も床も壁も板一枚のため、夏の暑さ、冬の寒さは厳しかった。合宿には各自米を持参、布団代をお供えし た。制服は白の野球帽に白の半袖上着半ズボンであり、各自が用意した。各隊手作りの鼓笛隊、子供会活動であったが、昭和41年、教祖80年祭の旬に、本部で天理教少年会が発足し、翌年には愛昭隊も結成された。その後、制服は少年会活動服に切り替わっていく。
昭和44年、用木道場竣工後、会長様の許しを受け、鼓笛隊の練習や合宿に用木道場が使用できるようになり、環境も大きく変わる。おぢばがえり直前の合同練習には、用木道場四階にて冷房もお許し頂くことになった。また、こどもおぢばがえりが従来のお供演奏とプールサイド行事から、第二食堂での鼓笛バンドフェスティバルとなり、演奏が審査され表彰されることになった。夏の合宿などは皆力が入り、おぢばがえりでは残念な思いをしたことが数多かった。
さらにその後、鼓笛オンパレード審査に変わり、従来東山ボート池までのドライブコースでの行進練習であったが、上池駐車場や青少年公園などでの練習も行った。なお、恒例であった東山ボート池でのボートは、ドライブコースが変わり、行進が不可能になったことや、子供会への助成もなくなったため、今は実施されていない。(現在は平和公園内で行進練習を行っています)
また、学生会や青年会も盛んになり、鼓笛を卒業した多くの隊員が参加することとなった。通じて昭和40年代は各種活動の基盤が確立した時代であった。
昭和41年 | 伊吹山にをいがけ演奏 | |
鼓笛 OB による器楽部結成 | ||
昭和42年 | 8/20 少年会愛昭隊結成 | |
昭和43年 | 高安大教会 少年会結成式演奏 | |
昭和44年 | 6/1 三代会長就任奉告祭・用木道場竣工式 | |
昭和46年 | 3/6 二代会長様(花井義雄)お出直し | 銀賞 |
昭和47年 | 3/29〜30 都南鼓笛隊と交流会、及び、愛昭都分教会へ | 銀賞 |
昭和48年 | 高安大教会神殿落成奉告祭(青年会が『扉開いて』を熱演) | 銀賞 |
昭和49年 | 6/30 第一回愛知教区鼓笛バンドフェスティバル | 銀賞 |
昭和50年代を一言で言ってしまえば、すべての面で「恵まれた時代」であった。それは、長年の苦労の積み重ね、数多くの先輩方の苦労の種が一度に実ったのではなかろうか。鼓笛にたずさわる者にとっての最高のタイトル、鼓笛オンパレード「最優秀賞」を頂いたのもこの次期である。係員、隊員へのまめなハガキ、電話攻勢、春夏合宿でのお楽しみ行事等により内容も充実、隊員が増加した。それに伴い、年少者でも無理なく鼓笛活動ができるように工夫されたのが愛昭プリティーバンドである。
プリティーバンドは鼓笛の予備軍的な存在であった。当初、鈴岡勤一氏を中心としたスタッフは、毎回子ども向けのプログラム(リトミック、リズム楽器、ゲーム etc)で四苦八苦された。しかし、その中で育った子どもたちが、自然に鼓笛バンドに入隊し、やがて係員となっていくのである。鼓笛バンド、プリティーバンドはお互いに兄弟というような関係で、終始和やかな雰囲気であった。春夏の合宿ともなれば、百数十人の子どもたちで教会はごったがえした。三度の食事、おやつから布団の段取り、いたれりつくせりのひのきしんのお母さん方の奮闘ぶりもありがたい思い出の一つである。
用木道場、神殿横の3階練習場、神殿下のカウンター等の恵まれた練習場所、恵まれた環境、恵まれた人材の中、鼓笛バンドは連続して金賞を頂いた。こどもおぢばがえりのおやさとパレードでは単独出演。リヤカーで造ったアリさん、サンダーバードの帽子、きらきら星、インディアン、それぞれが楽しいパフォーマンスであった。
また昭和58年、真柱様が愛昭分教会御巡教の祭には、真柱様の目の前で、緊張の演奏をさせて頂いたことは、愛昭鼓笛クラブにとって、この上ないほこりになることも、付け加えておこう。
昭和50年 | 銀賞 | |
昭和51年 | 年少児を対象に「愛昭プリティーバンド」を発足 | 金賞 |
「愛昭鼓笛バンド」に呼称変更 | ||
昭和52年 | 鼓笛オンパレードにて最優秀賞を受賞(演奏曲:キングコットン) | 金賞 |
昭和53年 | 銀賞 | |
昭和54年 | 金賞 | |
昭和55年 | 金賞 | |
昭和56年 | 金賞 | |
昭和57年 | 3/2 三代会長様(花井春國)お出直し | 金賞 |
6/1 四代会長就任奉告祭 | ||
昭和58年 | 5/20 〜 5/21 真柱様、愛昭分教会へお入り込みを祝し、鼓笛バンド演奏 | 金賞 |
昭和59年 | 4/29 第一回高安大教会鼓笛バンドフェスティバル | 銀賞 |
昭和58年、真柱様が愛昭にお入り込みになった。教会にとっても我が鼓笛クラブにとっても、二度とない喜びの日であった。愛昭プリティーバンドのよい子のみなさんは、この喜びを一枚の大きな横断幕に描いた。「ようこそ しんばしらさま」と。そして、大きな真柱様の顔、その横にはそれぞれが自分の得意とする絵を描いた。花、動物、女の子… etc.子どもらしく愛らしい横断幕となった。真柱様も子どもたちの描いた絵を見てさぞかしお喜びになるだろうと、その横断幕を張った。その時誰かが言った、「真柱様の顔の横に描いてあるのはウンチじゃないか?」と。まさか?と思ったが、みんなで調べた。実にウンチであった。「誰が描いたんだー」と一斉に叫んだが、これも子どもらしくていいんだということで、当日も張らせてもらった。
なお、真柱様がこの絵を見て気づかれたかどうかは知らない。
この時代、鼓笛に出入りした者なら知らない者がいないほど、有名な事件がある。それは夏合宿の風呂流血事件である。あのころ風呂は用木道場を出てすぐのところにあった。各班ごとに決められた時間内に入る、実に芋洗いのような入浴時間であったが、暑い夏のこと、気に入った仲間と入る風呂は楽しみの一つであった。そんな中に大きな危険があった。入浴中の当時隊員 N 君は、みんなと一緒に風呂に潜って遊んでいた。何を思ったのか、ひょいと頭を上げた場所が悪かった。太い水道の蛇口の角であったのだ。一瞬に大きな浴槽が血の海となった。当時、育成係であった長崎弘氏が血と水浸しになりながら、 N 君を抱きかかえていた姿を私は忘れることはできない。N 君も今は元気でバンド活動をしているが、いくつになってもあの事件は酒の肴になること間違いなしだよ!