天理教愛昭分教会

花井まさ物語

テキスト版

この度、花井まさ先生の十年祭執行を機に、『花井まさ物語』を出版されることとなり、先生のご遺徳をお偲び申し上げたいと存じます。

私は、先生に直接仕込まれたことはないのですが、常に前会長である母より、事あるごとに聞かされた話に、「朝起き、正直、働き、見てはさんげ、聞いてはさんげ、たんのうしていく徳によって、大きくなる、栄えてくる…いかな道中なげくなよ…」という話があります。これは愛昭明分教会初代会長・竹内阿や子先生に宛てた手紙の内容でありました。私はこの言葉を今でも勇めないときに思い返し、その都度心の支えとさせて頂いております。短い文ではありますが、先生がおたすけ人として、神一条、たすけ一条、親一条、尽くし運びに徹しきられたお姿が凝縮された言葉であると思います。改めて先生の偉大さに感銘する次第であります。

この物語が、信仰生活の台となる書として道を求める教友の大いなる道しるべになることをお祈りいたします。

南愛分教会長 西海成人

ごあいさつ

「今の若い者は頭ばっかりで実行がないであかんわ。利口(りこう)ってって、理を粉にしてしまうわ。アホが世をもつ、世をさばくと言うんだで、この道は通らにゃわからんぞん。ほいで、三日坊主が多いわな。続いてこそ道というんだで!」という花井まさの叱咤激励が聞こえてきそうです。年中、三百六十五日、朝起き・正直・働きを実行され、今日の愛昭分教会の盤石の礎を築き上げられたのが、愛昭二代会長夫人・花井まさ様であります。

この度、花井まさ之霊様の十年祭をつとめるにあたり、たすけ一条、つくし一条に通り切られた霊様の心の軌跡をたずね、元一日を振り返り、今後の進むべき信仰の指針になればとの思いから、『花井まさ物語』を出版しました。活字離れがささやかれて久しい今日、老若男女を問わず、わかりやすく親しめるようにとの考えから、劇画絵本の制作を思い立ち、教内外を問わず活躍されている、中城健雄先生にその労をお願いして、霊様の生き様を描いて頂きました。

時あたかも教祖百二十年祭に向かって、全教が実動 の旬、成人≠フ旬をお与え頂いて、足並み揃えて邁進しております。教祖の数々の年祭を成人の節目として、真実を集め、力を尽くされた霊様の足跡の上に、更なる実を積み重ね、足並み揃えた実動をお誓い申し上げたいと思います。

本書発刊に際しまして、上級会長様始め、取材に応じて下さった諸先生に御礼申し上げますと共に、発刊の上にご苦労下さった諸氏に感謝し、本書を霊様に捧げる次第であります。

立教167年5月1日  愛昭分教会長 花井基弘

プロローグ

毎年二月二十日の月次祭終了後、花井まさ(おかあさん)の誕生日をお祝いした。

平成六年二月二十日も、いつものように九十五歳の誕生をお祝いし、信者有志からのお祝いの品々、花束を前に、 参拝者に向かって まさ は御礼の言葉を述べた。「このバカがようこそここまで結構になれたということは、神様のお陰。神様のなさることは恐れ入りますで、皆さんでも、にをいがけ、ご恩報じ、おぢばがえり、ひのきしん、何からでもええでさせてもらって、結構頂いてもらいたいわ。何も難しいことはない。このバカが出来たんだで、ほいだで、日々を勇んでお通り下さい」と。

これが最後の誕生日のお祝いとなった。

花井まさ物語

この道のおたすけ人として、また、愛昭分教会の二代会長夫人として、神一条、たすけ一条に尽くし運び、一年三百六十五日「朝起き、正直、働き」に徹し切った九十六年であった。

誕生

まさ は、明治三十二年二月二十日、愛知県渥美郡野田村大字仁崎にて、父・河邊仲助、母・つるの次女として出生。

幼い頃より男勝りで、木登りや泳ぎの達者な子供であった。

結婚

娘時代、花井製糸工場へ勤務。蚕より生糸を抜く作業は手早く、人の三倍働いたという。

まさ が二十一歳の時、花井製糸の次男・花井義雄(後の愛昭二代会長)に惚れて、「いっしょになってくれなければ死んでやる」と、押し掛け女房のように結婚した。

事情の苦労

仏教の盛んな土地柄であり、お念仏を百回唱えないと家に入れてもらえないというほど熱心な家で育った まさ は、二十三歳の時に五重相伝を受けた。

長女・いね子が生まれた頃、製糸業の経営は悪化し、実家の父・河邊仲助は花井製糸の保証人となっていた為、田地やセメント山を取られるはめになった。兄弟は満州へ逃げ、義雄は京都で絵画の道を志したが、生計を立てるまでではなく、 まさ が製糸工場に勤めながら一人で家計をやりくりした。そんな中でも、義雄の母をはじめ、 まさ を頼ってきた親族一家に「いいよ、うちへおいで」と気持ちよく面倒見ていた。

おてびき

昭和三年、名古屋で飲食業を営んでいた弟を頼って料理屋を始めた。店は面白いように繁盛したが、儲けただけ義雄が持ち出してしまう。働いても働いても、ざるに水であった。

そんな頃、 まさ の背中に大きな腫れ物が出来た。困っていた矢先、店に出入りしていた南愛分教会(当時は南愛宣教所)のよふぼく、平井富次郎のおさづけにより御守護頂いた。「よう(できもの)が出来るのは神様の用向きがあるからだ」と諭され、南愛へ運ぶようになった。

いんねんの自覚と心定め

南愛では「人を遊ばせ、人を狂わせてまでも儲ける商売は、我が家の狂う理」と諭された。教理を聞くと通り返しの道があるという。

まさ は、サッサと店をたたみ、「教祖殿が出来るから、柱一本の心定めをしたらどうだ」とのお諭しに、すぐさま三千円御供した。すると、会長様がとても喜んで下さった。

それが嬉しくて、次から次へと徳積みに励み、 まさ の信仰は一直線へと突き進んだ。

峯松先生

店をたたんだ半年後、 まさ は豊橋で暮らすようになっていた。

たまたまその家の前が愛静支教会(現・愛静大教会)で、そこの布教師であった峯松金太郎氏と心易くなり、毎晩のように教理を聞くようになった。

こうして峯松氏に仕込まれた まさ は、二十人余りをにをいがけしたが、自らはまだ別科に入学できないでいた。

別科入学

昭和八年、長男・春國誕生。本教は立教百年祭・教祖五十年祭という二大年祭を前にして『人類更生』のかけ声のもと全教が湧き立っていた。

まさ は別科行きの旬が来たと思った。しかし、義雄や家族の者からも大反対を受けた。夫婦の縁が切れても親子の縁まで切れるのは嫌だから、別科行きを止めようと決心したが、そうするとおこりみたいな震えが来てどうにも止まなかった。「お前は天理教の神さんに取り憑かれた。どうにでもしやがれ。家の前をあっちこっちと独り子供を背負って歩き回ってくれるな。もう二度と来るじゃない」という母の言葉に、 まさ は自分という人間の深いいんねんを思い涙が止まらなかった。

そんな中、南愛の会長さんから「泣くんじゃない。あんたは今に親戚の宝になるんだよ」と言われ、子供(春國)を背負い別科五十一期に入学した。

別科時代

別科で聞かせて頂く教祖のお話に、 まさ は毎日涙するのであった。九月に入学し、冬になって雪が降っても紺絣のままで震えていた。流感がはやり同じ別科生の連れ子達が次々と出直し、春國も危篤となった。そこで まさ は、岡山の義雄に電報を打ったが、面会には来てくれなかった。その中を まさ は「教祖の通られた道に比べれば、まだまだ」と、自らの心に鞭打ってつとめた。

まさ は別科で一生懸命勉強しようとノートを持っていったが、書いてあったのは、

一、あほうになること

一、人を見たら神と思え

の二言であった。

教会住み込み

別科を修了した まさ は、義雄のところにも実家にも帰れず、そのまま南愛に住み込ませてもらった。 まさ は乳飲み子をかかえ、毎日ひのきしんやにをいがけに励んでいた。

ある日、 まさ が庭で洗濯物を干していると、垣根の向こうからこちらをのぞく人がいる。よく見るとそこには夫である義雄の姿があった。岡山から まさ を迎えに来たのである。義雄に「いつまでも何をしとる」と言われ、 まさ は物干しの竿からサッサとオムツを外して風呂敷に包み、いそいそと義雄の後について岡山に帰っていった。

さづけの効能

やがて まさ の布教活動が本格的に始まる。従兄の肋骨カリエスは、数人の博士から余命いくばくもなしと宣告されながら、 まさ は「どうせ死ぬならわしの実験台になりなよ」と、岡山へ連れてきて、無い中ご恩返しの道を通らせて御守護を頂いた。十年余りの業病であったひどい腫れ物の出来た方も、子宮癌の婦人も肺病の方々も、おさづけにより次々と御守護頂いていった。

まさ 自身もおさづけの理の鮮やかさに驚喜したが、それ以上に心打たれたのは義雄であった。

その後、義雄は別科五十三期に入学し、昭和十年三月に講社を祀り、同十五年七月十七日、天理教愛霽布教所を開設した。

愛昭分教会担任

昭和十七年一月一日、愛昭分教会主管者、西海兵三は上級・南愛分教会へ入り込むこととなり辞職する。後任として花井義雄が推挙されたが、会長になる気はないと断った。すると春國の腸が下がって立てなくなった。

まさ は義雄に「何もかも私がやるで、名前だけでいい、会長になってくれ」と頼んだ。

その後、義雄は愛昭分教会主管者のお許しを、二月二十七日に戴くこととなる。

ひのきしん

一九四一年太平洋戦争勃発。国内中戦下の元、天理教は各地でひのきしんを行なった。

まさ も毎日のように二・三名の住み込み者と共に、小牧山(現在の名古屋空港付近)の開拓ひのきしんに励んだ。

当時、愛昭分教会は全く無名の教会であったが、奉答資金とひのきしんの功績で、後に愛知教区管内では、本愛大教会と共に真柱様から表彰を受けた。

名古屋大空襲

昭和二十年四月七日、名古屋大空襲により教会は全焼し、長女・いね子は、親神様・教祖の御分霊をリュックサックに入れたまま、防空壕の中で生き埋めとなった。

救助隊が駆けつけたとき、いね子は仮死状態であった。半数以上は焼け死んでいたが、息のある人もトラックで病院に運ばれるまでに、大半が息を引き取った。その中でいね子は奇跡的に助かった。

親に尽くす道

昭和二十一年、御分霊再下附のお許しを戴き、名古屋市東区山田東町の三軒長屋へひとまず移転する。

教会復興の際「花井さん、困ったときはいつでもおいでよ」と、日頃可愛がって下さっていた加藤ひさ先生(南媛分教会初代会長)のことを思い出し、苦労して切符を手に入れ、四国を訪ねた。先生の第一声は、「花井さん、あんた自分のところの普請をするというが、それはちょっと違うんじゃないか。そんなことで理が立つか。あんたの親教会はどうなっているんですか!」と、お仕込みを受けた。その言葉に まさ は腹が立った。しかし、よく考えてみるとその通りであると心を入れ替えて、上級・南愛分教会の普請の上に徹底して尽くし切っていった。

その中、不思議・不思議のおたすけが上がり、教勢が伸び広がって、教会は人であふれるほどになった。

現在地の御守護

昭和二十三年、移転建築のお許しを戴き、現在の土地を不思議に御守護頂いた。

まさ はいつも「徳を積まんとおたすけがあがらんぞ。徳を積むにはひのきしんをせないかん」とお仕込みした。その言葉を受けて、住み込み男性は毎日のように開拓ひのきしんに汗を流した。また「お勝手なんてワシは一人でやったぞん。三人も四人もいることいらん」と、毎朝女性のおたすけ人を皆教会から追い出して、 まさ は南愛の御用へと出発するのが日課であった。

やがて昭和三十六年、当時教内では画期的なコンクリート造りのモダンな大神殿が落成した。

この間、教祖七十年祭には、部内教会の第一号である昭惠美分教会が誕生。その後旬々に教会が誕生していった。

ふしぎふしん

まさ が毎日、朝から夜遅くまでおたすけに走り回る一方、義雄は、神殿の火ばちで事情や身上の悩みをかかえた人々の話にじっと耳をかたむけるのが日課であった。

振り返ってみると、上々級・都南の神殿普請に伏せ込む中に大崎の布教所(後の愛昭都分教会)を御守護頂き、南愛の神殿普請に精一杯つとめると、木造二階建ての新館が出来上がった。また、「一億一万一千」のかけ声のもと、必死の活動をつとめ切った教祖七十年祭には大食堂が完成した。

まさ は立派になった教会中をながめ「誰に頼みはかけねども、でけたちきたるがこれ不思議」と、自然と御神言を口ずさむのであった。

大教会献木

昭和四十四年四月、春國が三代会長に就任。その翌年、大教会の神殿普請が打ち出された。義雄は神殿の親柱の献木を心に定め、愛昭部内一丸となって用材捜しに、また御供のおたすけに日夜奔走していた。

そんな中、義雄は病床についてしまった。 まさ は最後まで身上の御守護を願いつつも、後髪引かれる思いでおたすけに走りまわっていた。しかし義雄は、完納を目前に、親柱にふさわしい木曽檜の写真を満足げにながめながら静かに出直した。

その後、まだ見つかっていない残りの用材が まさ の夢に現れた。すると夢の通りの用材が次々と見つかり、心定め通り、親柱を献納することができた。

献木の日、 まさ は檜の横で義雄の遺影を抱えて涙するのであった。

教祖ひながた

昭和五十一年三月二日、三代会長・春國が大教会神殿奉仕の帰途、突然出直した。

まさ にとってこれ以上辛いことはなかったが、ある教友から「教祖はどうだったかね」とたずねられ、ポンと手をたたいた。 まさ は「あぁ教祖、教祖のひながたを忘れておった。教祖の晩年はどうだったか、夫にも息子にも先立たれ、孫のたまえ様といそいそとお通り下されたではないか」と、心を再び奮い立たせておたすけに奔走した。

まさ はそんな自分を「私は消防車と同じだ」と称した。教祖がお待ち下されていると思うと、じっとしておられないので毎日走りまわっているというのだ。

真柱様御巡教

昭和五十八年五月、真柱様が愛昭分教会に御巡教下さった。

まさ は親しく真柱様と談笑させて頂き、握手までさせて頂いた。

それ以来、どこへ行っても、「ワシは真柱様とこの手で握手したんだぞん」と、誇らしげに皆さんと共に手を取り合って喜びにくれる晩年を過ごした。

出直し

常に「病むほどつらいことはない。わしもこれからひのきしん」と説いてきた まさ は、平成六年五月十五日、奇しくも全教一斉ひのきしんデーの朝、「有り難い、有り難い、勿体ないこっちゃ」と、皆に手を合わせながらコトンと静かに息を引き取った。

享年九十六歳。

エピローグ

おかあさん(花井まさ)が私達に残してくれたもの、それは立派な建物でもなければ広大な敷地でもない。

それは火にも焼けない、水にも流されない、教祖を慕って通られた、たすけ一条の道そのものである。

花井まさ略歴

明治32/2/20
河邊まさ誕生
(愛知県渥美郡野田村大字仁崎に、父・仲助、母・つるの二女として生まれる)

大正3/3/

野田村高等小学校卒業


9/8/

花井義雄(後の愛昭二代会長)と結婚


11/8/4
長女・いね子(現・大内)誕生

昭和4/6/

身上のてびきにより入信


6/10/25
おさづけの理拝戴


8/1/20
長男・春國(後の三代会長)誕生


9/2/10
別科第51期卒業


11/5/6
天理教権訓導拝命


12/


自宅に神様を祀り、講社となる


15/7/17
愛霽布教所開設(名古屋市北区東水切町4-55)


17/2/27
義雄が愛昭分教会二代会長の理のお許しを戴く


20/4/7
午前11時、太平洋戦争の空襲により教会全焼
(名古屋市東区杉村町深田18番地)


21/1/31
御分霊再下付、移転願(名古屋市東区山田東町1-19-1)


22/9/26
移転建築願により現在地へ移転
(名古屋市千種区田代町字瓶入1番地1-146)


32/10/26
愛昭正分教会設立、初代会長に就任


42/2/14
愛昭正分教会長を辞任


44/4/26
二代会長・義雄の辞任に伴い、春國が三代会長の理のお許しを戴く


46/3/6
義雄(二代会長)出直


48/10/22
高安大教会おつとめ奉仕員拝命


51/8/

海外布教研修(アメリカ)


57/3/2
春國(三代会長)出直


57/5/26
君子(春國の妻)が四代会長の理のお許しを戴く


58/5/20
三代真柱様、愛昭分教会に御巡教下さる

平成6/5/15
出 直(享年九十六歳)


6/5/18
みたまうつし


6/5/19
告別式


6/7/1
五十日祭執行


7/5/1
一年祭執行


8/9/26
四代会長・君子の辞職に伴い、基弘(君子の長男) が五代会長の理のお許しを戴く


11/4/29
五年祭執行


16/5/1
十年祭執行

取材メモ

今回の『〜朝起き・正直・働き、実行の人〜花井まさ物語』の下敷きになるはずであった『花井まさ物語(仮題)』の資料集めを六人の若者と始めて二年。「おかあさん」の想い出、エピソード、決定的な場面での心に残る一言など、現存の先輩方にお話をうかがおうと、カセットとテレコを持って東へ西へ走り回った。四十五人の先輩諸氏に、延べ八十時間にも及ぶインタビューと、テープほどき。おかあさんの話であると同時に、その人の自分史でもあった。

時間軸を縦糸に、人と人のふれあいを横軸に、織りなす河の流れのような愛昭の歴史。その真ん中を飄々と「ありがたい、ありがたい…」と、通り切られた九十六年。その中から抽出されたエッセンスのような二十編。只々合掌。

鈴岡勤一

手紙

布教師にあてた一通の手紙より

朝起き 正直 働き

見てはさんげ 聞いてはさんげ

たんのうしていく徳によって 大きくなる 栄えてくる

不足 腹立ちは金銭 縁談 よろづ切れ道

高慢は神も嫌うが 人にも嫌われる

いかな道中 なげくなよ 神は先に思惑あるからに

陽気ぐらしが 神の喜び

日々 これを守って下さい

母より

花井まさ物語

編集委員 鈴岡勤一、花井善弘、原田理明、鈴木哲一郎、榊原真、山田浩康、鈴木伸宜
花井基弘
中城健雄