

一軒の家は目に見えない土台というものに支えられています。一本の木は目に見えない根に支えられています。商売は目に見えない信用に支えられています。そして、私達人間は目に見えない心の徳に支えられていると教えて頂きます。私達はつい目に見える表の部分である姿や形、数や量の大きさにこだわりますが、本当に大切なものは目に見えない陰の力である「徳」ではないでしうか。
徳とは、人の前にあるのではない。人のみていない陰にある…。人の見ていない所こそ、自分が知っている。自分が知っていることこそ、神が知っている。お蔭様という言葉を陰でよく聞く。その通りである…。
(関根豊松、愛町初代の言葉)
お道では「伏せ込み」という言葉を使います。世の為、人の為にどれだけ一生懸命尽くしても価を求める心があっては伏せ込みとは言えません。人や物金が目標ではなく、目に見えない神様目標でただ一条に真実を尽し続けてこそ初めて「伏せ込んだ」と言えるのです。伏せ込みは神一条に伏せ込むので、おぢばやおぢばの理を頂く国々処々の教会に伏せ込むこと、更には人救けの為に見返りや報酬を求めずコツコツ真実の心を尽し切ることです。その行為は、たとえ人に受け取って頂かなくても必ず神様が、真実の種を受け取って下さるのです。
やしきハかみのでんぢやで まいたるたねハみなはえる
(みかぐらうた 七下り目 八ツ)
にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている
(おふでさき 号外)
しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし
(おふでさき 号外)
たん/\とこのものだねがはへたなら これまつだいのこふきなるそや
(おふでさき 号外)
伏せ込んだ理が大きければ大きい程、旬が来て大きな徳として表に見せて頂くのも天理です。その最も顕著な姿が、本席飯降伊蔵先生の通られた姿ではないでしょうか。変わらぬ真実伏せ込みこそ、教祖から「本席」という尊い理を頂戴できたに違いありません。お互いよふぼくは、それぞれ与えられた場所での「飯降伊蔵」目指して、変わらぬ心で伏せ込みへの道を続けたいと思います。