天理教愛昭分教会
Heart & Heart

Heart & Heart
-Vol.017-
R170/04/20

→頼 野 雅 廣
よりのまさひろ。
1957年生まれ。
芦津部属
南國分教会三代会長。

道をあゆめば (1)

私が何よりも苦手としているのは「ペンを執る」事です。ですから、この原稿依頼も再三お断りしたのですが編集長が引下ってくれず、しつこく依頼してくるので、恥ずかしながら私の信仰を書かせて頂きます。

私は昭和27年に4人兄弟姉妹の3番目に生まれました。しかし、両親にしてみれば、待望の長男である私の誕生は、何ものにも代えることが出来ない喜びだった事でしょう。ところが、母は母乳が出ず、その上、未熟児で生まれた私は生存さえ危ぶまれる状態でした。しかも、生後3ヶ月目には肺炎に罹ってしまい、病院に連れて行ったものの、治療の甲斐なく息を引き取ってしまい、医者からは死亡を言い渡されました。

そんな私を抱きかかえて病院を出た両親の心中は絶望以外のなにものでもなかったと思います。そんな帰路の中、ある近所の方とバッタリと出合ったのです。何やら尋常でない様子に気付いたのでしょう。事の由を話すと、「天理教の教会に行こう」と言ったそうです。その方は修養科を終了して帰ってきたばかりだったそうで、親身になって誘ってくださる様子に、全く信仰心の無かった母も、藁をも縋る思いだったのでしょう、「たった一人の男の子を、長男を死なせてはならない」と、既に息をしていない私を抱いて、早速言われるがままに付いて行ったのです。

その時は解らなかったのですが、そこは教会ではなく、当時は布教所でした。

その方は布教所に着くと、私を抱いた母を神様の前に座らせ、布教所の先生に「おさづけ」の取次ぎをお願いして下さいました。事情を悟った先生は両親を前に「息子さんを救けてもらいたかったら、今すぐ仕事を辞めて修養科に行きなさい。」と、仰いました。両親は3人の子どもの事など色々と思案したようですが、最終的には「この子が救かるなら」と、修養科に入る心を決めてくれました。その言葉を受けた先生も、熱心に「おさづけ」を取り次いで下さいました。しかし、その甲斐なく何の変化も有りませんでした。

ところが、暫くすると、確かに息が止まっていた私が、微かにスヤスヤと寝息をたて始めたそうです。その時の両親の喜び様は例えるものもない程だったと思います。元々信仰心の深い父親は、当時他宗教を熱心に信仰していましたが、目の当たりにした鮮やかな御守護に感服し、修養科終了後も教会の御用を母親と二人で勤めてくれたそうです。そして、「おさづけ」を取り次いで下さった布教所の先生こそ、後に事情教会を復興し、南國分教会二代会長となられた「芳村アイ」先生だったのです。当時、布教所長を務めていた芳村先生は白熱の布教をされていて、何人もの住み込み人を抱えて、おたすけに奔走しておりました。

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