

幸せになりたいと願わない人はありません。毎日々々うまく行きたいと思わない人はないのであります。ところが現実はなかなか思い通りいかないのが人の世の常です。
別席では、
この世は一軒限り。その日その日旬が来たならば銘々に通り来たれる道は善悪共に現れます。何ほど通ろうまいと思うても、通りただけは自然に通らねばならん。通さねばならんと仰せられる。どんな人でも何でも己は幸せになりたいと思っているが、思うようにならないのがいんねんです。
これまではたすかる道が知れなんだから、いんねんじゃと言って捨ててきた。なれど、この親神様のお話を聞かせてもらい、初めていんねんの理を果たし、たすかる道も分かるのであります。
と、聞かせて頂いております。いんねんの理を果たし、たすけて頂く道には、まず、「たんのう」の心をしっかり治めることです。「たんのう」ということは喜びです。
愛昭のおかあさんは、よく、「喜べんということは徳が切れた姿だから、にをいがけ・御恩報じ・おぢばがえり・ひのきしん、何からでもいいから徳を積みな。徳さえ出来れば喜べるようになるんだで。喜べるから救かっていくんだぜ。」と仰ってました。つまり、いんねんを自覚するためには成ってきた理として受け止めることのできる「たんのう」の心が不可欠であります。そして「たんのう」の心をつくるためには「尽くしや運び」の実行が大切なのです。
「尽くし・運び」と言えば、お供え(お金)を思い浮かべます。「天理教を信心したら金がいる。暇がかかる。」と言う人がいますが、世の中で暇と金がかからないもので良いものがあるでしょうか?
与えを出さずして成果だけを手軽に手にしたいと思うのは大きな間違いだと思います。七下り目にも、
四ッ よきぢがあらバ一れつに たれもほしいであらうがな
七ッ なんでもでんぢがほしいから あたへハなにほどいるとても
と、ありますように、良い田地が欲しいならば、それに見合うだけの値が必要なのです。何でもどうでも「尽くし運んで」いく真実の心こそ、親神様の自由自在の御守護が授けられるという、ただ単に拝み祈祷の信仰ではない証拠信心と教えられるお道の信仰の心髄を述べられているお歌だと思います。
おかあさんが「真実・価を持って買いに来い。よろづたすけの売り店を出す。この神様は、真実・価さえ出しゃあ、どんなことでも救けて下さるんだ。ただじゃあ働かんよ。」と、仰ったのもまさにこのことでしょう。
日々喜べる心、どんな与えも喜べる「たんのう」の心を治めることのできるよう「尽くし・運び」にも心込めさせて頂きたいものです。