
南愛では「人を遊ばせ、人を狂わせてまでも儲ける商売は、我が家の狂う理」と諭された。教理を聞くと通り返しの道があるという。
まさは、サッサと店をたたみ、「教祖殿が出来るから、柱一本の心定めをしたらどうだ」とのお諭しに、すぐさま三千円御供した。すると、会長様がとても喜んで下さった。
それが嬉しくて、次から次へと徳積みに励み、まさの信仰は一直線へと突き進んだ。
店をたたんだ半年後、まさは豊橋で暮らすようになっていた。
たまたまその家の前が愛静支教会(現・愛静大教会)で、そこの布教師であった峯松金太郎氏と心易くなり、毎晩のように教理を聞くようになった。
こうして峯松氏に仕込まれたまさは、二十人余りをにをいがけしたが、自らはまだ別科に入学できないでいた。
昭和八年、長男・春國誕生。本教は立教百年祭・教祖五十年祭という二大年祭を前にして『人類更生』のかけ声のもと全教が湧き立っていた。
まさは別科行きの旬が来たと思った。しかし、義雄や家族の者からも大反対を受けた。夫婦の縁が切れても親子の縁まで切れるのは嫌だから、別科行きを止めようと決心したが、そうするとおこりみたいな震えが来てどうにも止まなかった。「お前は天理教の神さんに取り憑かれた。どうにでもしやがれ。家の前をあっちこっちと独り子供を背負って歩き回ってくれるな。もう二度と来るじゃない」という母の言葉に、まさは自分という人間の深いいんねんを思い涙が止まらなかった。
そんな中、南愛の会長さんから「泣くんじゃない。あんたは今に親戚の宝になるんだよ」と言われ、子供(春國)を背負い別科五十一期に入学した。
別科で聞かせて頂く教祖のお話に、まさは毎日涙するのであった。九月に入学し、冬になって雪が降っても紺絣のままで震えていた。流感がはやり同じ別科生の連れ子達が次々と出直し、春國も危篤となった。そこでまさは、岡山の義雄に電報を打ったが、面会には来てくれなかった。その中をまさは「教祖の通られた道に比べれば、まだまだ」と、自らの心に鞭打ってつとめた。
まさは別科で一生懸命勉強しようとノートを持っていったが、書いてあったのは、
の二言であった。
別科を修了したまさは、義雄のところにも実家にも帰れず、そのまま南愛に住み込ませてもらった。まさは乳飲み子をかかえ、毎日ひのきしんやにをいがけに励んでいた。
ある日、まさが庭で洗濯物を干していると、垣根の向こうからこちらをのぞく人がいる。よく見るとそこには夫である義雄の姿があった。岡山からまさを迎えに来たのである。義雄に「いつまでも何をしとる」と言われ、まさは物干しの竿からサッサとオムツを外して風呂敷に包み、いそいそと義雄の後について岡山に帰っていった。