
やがてまさの布教活動が本格的に始まる。従兄の肋骨カリエスは、数人の博士から余命いくばくもなしと宣告されながら、まさは「どうせ死ぬならわしの実験台になりなよ」と、岡山へ連れてきて、無い中ご恩返しの道を通らせて御守護を頂いた。十年余りの業病であったひどい腫れ物の出来た方も、子宮癌の婦人も肺病の方々も、おさづけにより次々と御守護頂いていった。
まさ自身もおさづけの理の鮮やかさに驚喜したが、それ以上に心打たれたのは義雄であった。
その後、義雄は別科五十三期に入学し、昭和十年三月に講社を祀り、同十五年七月十七日、天理教愛霽布教所を開設した。
昭和十七年一月一日、愛昭分教会主管者、西海兵三は上級・南愛分教会へ入り込むこととなり辞職する。後任として花井義雄が推挙されたが、会長になる気はないと断った。すると春國の腸が下がって立てなくなった。
まさは義雄に「何もかも私がやるで、名前だけでいい、会長になってくれ」と頼んだ。
その後、義雄は愛昭分教会主管者のお許しを、二月二十七日に戴くこととなる。
一九四一年太平洋戦争勃発。国内中戦下の元、天理教は各地でひのきしんを行なった。
まさも毎日のように二・三名の住み込み者と共に、小牧山(現在の名古屋空港付近)の開拓ひのきしんに励んだ。
当時、愛昭分教会は全く無名の教会であったが、奉答資金とひのきしんの功績で、後に愛知教区管内では、本愛大教会と共に真柱様から表彰を受けた。
昭和二十年四月七日、名古屋大空襲により教会は全焼し、長女・いね子は、親神様・教祖の御分霊をリュックサックに入れたまま、防空壕の中で生き埋めとなった。
救助隊が駆けつけたとき、いね子は仮死状態であった。半数以上は焼け死んでいたが、息のある人もトラックで病院に運ばれるまでに、大半が息を引き取った。その中でいね子は奇跡的に助かった。
昭和二十一年、御分霊再下附のお許しを戴き、名古屋市東区山田東町の三軒長屋へひとまず移転する。
教会復興の際「花井さん、困ったときはいつでもおいでよ」と、日頃可愛がって下さっていた加藤ひさ先生(南媛分教会初代会長)のことを思い出し、苦労して切符を手に入れ、四国を訪ねた。先生の第一声は、「花井さん、あんた自分のところの普請をするというが、それはちょっと違うんじゃないか。そんなことで理が立つか。あんたの親教会はどうなっているんですか!」と、お仕込みを受けた。その言葉にまさは腹が立った。しかし、よく考えてみるとその通りであると心を入れ替えて、上級・南愛分教会の普請の上に徹底して尽くし切っていった。
その中、不思議・不思議のおたすけが上がり、教勢が伸び広がって、教会は人であふれるほどになった。
昭和二十三年、移転建築のお許しを戴き、現在の土地を不思議に御守護頂いた。
まさはいつも「徳を積まんとおたすけがあがらんぞ。徳を積むにはひのきしんをせないかん」とお仕込みした。その言葉を受けて、住み込み男性は毎日のように開拓ひのきしんに汗を流した。また「お勝手なんてワシは一人でやったぞん。三人も四人もいることいらん」と、毎朝女性のおたすけ人を皆教会から追い出して、まさは南愛の御用へと出発するのが日課であった。
やがて昭和三十六年、当時教内では画期的なコンクリート造りのモダンな大神殿が落成した。
この間、教祖七十年祭には、部内教会の第一号である昭惠美分教会が誕生。その後旬々に教会が誕生していった。