天理教愛昭分教会
花井まさ物語

花井まさ物語[簡易版]

ふしぎふしん

まさが毎日、朝から夜遅くまでおたすけに走り回る一方、義雄は、神殿の火ばちで事情や身上の悩みをかかえた人々の話にじっと耳をかたむけるのが日課であった。

振り返ってみると、上々級・都南の神殿普請に伏せ込む中に大崎の布教所(後の愛昭都分教会)を御守護頂き、南愛の神殿普請に精一杯つとめると、木造二階建ての新館が出来上がった。また、「一億一万一千」のかけ声のもと、必死の活動をつとめ切った教祖七十年祭には大食堂が完成した。

まさは立派になった教会中をながめ「誰に頼みはかけねども、でけたちきたるがこれ不思議」と、自然と御神言を口ずさむのであった。


大教会献木

昭和四十四年四月、春國が三代会長に就任。その翌年、大教会の神殿普請が打ち出された。義雄は神殿の親柱の献木を心に定め、愛昭部内一丸となって用材捜しに、また御供のおたすけに日夜奔走していた。

そんな中、義雄は病床についてしまった。まさは最後まで身上の御守護を願いつつも、後髪引かれる思いでおたすけに走りまわっていた。しかし義雄は、完納を目前に、親柱にふさわしい木曽檜の写真を満足げにながめながら静かに出直した。

その後、まだ見つかっていない残りの用材がまさの夢に現れた。すると夢の通りの用材が次々と見つかり、心定め通り、親柱を献納することができた。

献木の日、まさは檜の横で義雄の遺影を抱えて涙するのであった。


教祖ひながた

昭和五十一年三月二日、三代会長・春國が大教会神殿奉仕の帰途、突然出直した。

まさにとってこれ以上辛いことはなかったが、ある教友から「教祖はどうだったかね」とたずねられ、ポンと手をたたいた。まさは「あぁ教祖、教祖のひながたを忘れておった。教祖の晩年はどうだったか、夫にも息子にも先立たれ、孫のたまえ様といそいそとお通り下されたではないか」と、心を再び奮い立たせておたすけに奔走した。

まさはそんな自分を「私は消防車と同じだ」と称した。教祖がお待ち下されていると思うと、じっとしておられないので毎日走りまわっているというのだ。


真柱様御巡教

昭和五十八年五月、真柱様が愛昭分教会に御巡教下さった。

まさは親しく真柱様と談笑させて頂き、握手までさせて頂いた。

それ以来、どこへ行っても、「ワシは真柱様とこの手で握手したんだぞん」と、誇らしげに皆さんと共に手を取り合って喜びにくれる晩年を過ごした。


出直し

常に「病むほどつらいことはない。わしもこれからひのきしん」と説いてきたまさは、平成六年五月十五日、奇しくも全教一斉ひのきしんデーの朝、「有り難い、有り難い、勿体ないこっちゃ」と、皆に手を合わせながらコトンと静かに息を引き取った。

享年九十六歳。


エピローグ

おかあさん(花井まさ)が私達に残してくれたもの、それは立派な建物でもなければ広大な敷地でもない。

それは火にも焼けない、水にも流されない、教祖を慕って通られた、たすけ一条の道そのものである。


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