
毎年二月二十日の月次祭終了後、花井まさ(おかあさん)の誕生日をお祝いした。
平成六年二月二十日も、いつものように九十五歳の誕生をお祝いし、信者有志からのお祝いの品々、花束を前に、 参拝者に向かってまさは御礼の言葉を述べた。「このバカがようこそここまで結構になれたということは、神様のお陰。神様のなさることは恐れ入りますで、皆さんでも、にをいがけ、ご恩報じ、おぢばがえり、ひのきしん、何からでもええでさせてもらって、結構頂いてもらいたいわ。何も難しいことはない。このバカが出来たんだで、ほいだで、日々を勇んでお通り下さい」と。
これが最後の誕生日のお祝いとなった。
この道のおたすけ人として、また、愛昭分教会の二代会長夫人として、神一条、たすけ一条に尽くし運び、一年三百六十五日「朝起き、正直、働き」に徹し切った九十六年であった。
まさは、明治三十二年二月二十日、愛知県渥美郡野田村大字仁崎にて、父・河邊仲助、母・つるの次女として出生。
幼い頃より男勝りで、木登りや泳ぎの達者な子供であった。
娘時代、花井製糸工場へ勤務。蚕より生糸を抜く作業は手早く、人の三倍働いたという。
まさが二十一歳の時、花井製糸の次男・花井義雄(後の愛昭二代会長)に惚れて、「いっしょになってくれなければ死んでやる」と、押し掛け女房のように結婚した。
仏教の盛んな土地柄であり、お念仏を百回唱えないと家に入れてもらえないというほど熱心な家で育ったまさは、二十三歳の時に五重相伝を受けた。
長女・いね子が生まれた頃、製糸業の経営は悪化し、実家の父・河邊仲助は花井製糸の保証人となっていた為、田地やセメント山を取られるはめになった。兄弟は満州へ逃げ、義雄は京都で絵画の道を志したが、生計を立てるまでではなく、まさが製糸工場に勤めながら一人で家計をやりくりした。そんな中でも、義雄の母をはじめ、まさを頼ってきた親族一家に「いいよ、うちへおいで」と気持ちよく面倒見ていた。
昭和三年、名古屋で飲食業を営んでいた弟を頼って料理屋を始めた。店は面白いように繁盛したが、儲けただけ義雄が持ち出してしまう。働いても働いても、ざるに水であった。
そんな頃、まさの背中に大きな腫れ物が出来た。困っていた矢先、店に出入りしていた南愛分教会(当時は南愛宣教所)のよふぼく、平井富次郎のおさづけにより御守護頂いた。「よう(できもの)が出来るのは神様の用向きがあるからだ」と諭され、南愛へ運ぶようになった。
南愛では「人を遊ばせ、人を狂わせてまでも儲ける商売は、我が家の狂う理」と諭された。教理を聞くと通り返しの道があるという。
まさは、サッサと店をたたみ、「教祖殿が出来るから、柱一本の心定めをしたらどうだ」とのお諭しに、すぐさま三千円御供した。すると、会長様がとても喜んで下さった。
それが嬉しくて、次から次へと徳積みに励み、まさの信仰は一直線へと突き進んだ。
店をたたんだ半年後、まさは豊橋で暮らすようになっていた。
たまたまその家の前が愛静支教会(現・愛静大教会)で、そこの布教師であった峯松金太郎氏と心易くなり、毎晩のように教理を聞くようになった。
こうして峯松氏に仕込まれたまさは、二十人余りをにをいがけしたが、自らはまだ別科に入学できないでいた。
昭和八年、長男・春國誕生。本教は立教百年祭・教祖五十年祭という二大年祭を前にして『人類更生』のかけ声のもと全教が湧き立っていた。
まさは別科行きの旬が来たと思った。しかし、義雄や家族の者からも大反対を受けた。夫婦の縁が切れても親子の縁まで切れるのは嫌だから、別科行きを止めようと決心したが、そうするとおこりみたいな震えが来てどうにも止まなかった。「お前は天理教の神さんに取り憑かれた。どうにでもしやがれ。家の前をあっちこっちと独り子供を背負って歩き回ってくれるな。もう二度と来るじゃない」という母の言葉に、まさは自分という人間の深いいんねんを思い涙が止まらなかった。
そんな中、南愛の会長さんから「泣くんじゃない。あんたは今に親戚の宝になるんだよ」と言われ、子供(春國)を背負い別科五十一期に入学した。
別科で聞かせて頂く教祖のお話に、まさは毎日涙するのであった。九月に入学し、冬になって雪が降っても紺絣のままで震えていた。流感がはやり同じ別科生の連れ子達が次々と出直し、春國も危篤となった。そこでまさは、岡山の義雄に電報を打ったが、面会には来てくれなかった。その中をまさは「教祖の通られた道に比べれば、まだまだ」と、自らの心に鞭打ってつとめた。
まさは別科で一生懸命勉強しようとノートを持っていったが、書いてあったのは、
の二言であった。
別科を修了したまさは、義雄のところにも実家にも帰れず、そのまま南愛に住み込ませてもらった。まさは乳飲み子をかかえ、毎日ひのきしんやにをいがけに励んでいた。
ある日、まさが庭で洗濯物を干していると、垣根の向こうからこちらをのぞく人がいる。よく見るとそこには夫である義雄の姿があった。岡山からまさを迎えに来たのである。義雄に「いつまでも何をしとる」と言われ、まさは物干しの竿からサッサとオムツを外して風呂敷に包み、いそいそと義雄の後について岡山に帰っていった。
やがてまさの布教活動が本格的に始まる。従兄の肋骨カリエスは、数人の博士から余命いくばくもなしと宣告されながら、まさは「どうせ死ぬならわしの実験台になりなよ」と、岡山へ連れてきて、無い中ご恩返しの道を通らせて御守護を頂いた。十年余りの業病であったひどい腫れ物の出来た方も、子宮癌の婦人も肺病の方々も、おさづけにより次々と御守護頂いていった。
まさ自身もおさづけの理の鮮やかさに驚喜したが、それ以上に心打たれたのは義雄であった。
その後、義雄は別科五十三期に入学し、昭和十年三月に講社を祀り、同十五年七月十七日、天理教愛霽布教所を開設した。