
昭和十七年一月一日、愛昭分教会主管者、西海兵三は上級・南愛分教会へ入り込むこととなり辞職する。後任として花井義雄が推挙されたが、会長になる気はないと断った。すると春國の腸が下がって立てなくなった。
まさは義雄に「何もかも私がやるで、名前だけでいい、会長になってくれ」と頼んだ。
その後、義雄は愛昭分教会主管者のお許しを、二月二十七日に戴くこととなる。
一九四一年太平洋戦争勃発。国内中戦下の元、天理教は各地でひのきしんを行なった。
まさも毎日のように二・三名の住み込み者と共に、小牧山(現在の名古屋空港付近)の開拓ひのきしんに励んだ。
当時、愛昭分教会は全く無名の教会であったが、奉答資金とひのきしんの功績で、後に愛知教区管内では、本愛大教会と共に真柱様から表彰を受けた。
昭和二十年四月七日、名古屋大空襲により教会は全焼し、長女・いね子は、親神様・教祖の御分霊をリュックサックに入れたまま、防空壕の中で生き埋めとなった。
救助隊が駆けつけたとき、いね子は仮死状態であった。半数以上は焼け死んでいたが、息のある人もトラックで病院に運ばれるまでに、大半が息を引き取った。その中でいね子は奇跡的に助かった。
昭和二十一年、御分霊再下附のお許しを戴き、名古屋市東区山田東町の三軒長屋へひとまず移転する。
教会復興の際「花井さん、困ったときはいつでもおいでよ」と、日頃可愛がって下さっていた加藤ひさ先生(南媛分教会初代会長)のことを思い出し、苦労して切符を手に入れ、四国を訪ねた。先生の第一声は、「花井さん、あんた自分のところの普請をするというが、それはちょっと違うんじゃないか。そんなことで理が立つか。あんたの親教会はどうなっているんですか!」と、お仕込みを受けた。その言葉にまさは腹が立った。しかし、よく考えてみるとその通りであると心を入れ替えて、上級・南愛分教会の普請の上に徹底して尽くし切っていった。
その中、不思議・不思議のおたすけが上がり、教勢が伸び広がって、教会は人であふれるほどになった。
昭和二十三年、移転建築のお許しを戴き、現在の土地を不思議に御守護頂いた。
まさはいつも「徳を積まんとおたすけがあがらんぞ。徳を積むにはひのきしんをせないかん」とお仕込みした。その言葉を受けて、住み込み男性は毎日のように開拓ひのきしんに汗を流した。また「お勝手なんてワシは一人でやったぞん。三人も四人もいることいらん」と、毎朝女性のおたすけ人を皆教会から追い出して、まさは南愛の御用へと出発するのが日課であった。
やがて昭和三十六年、当時教内では画期的なコンクリート造りのモダンな大神殿が落成した。
この間、教祖七十年祭には、部内教会の第一号である昭惠美分教会が誕生。その後旬々に教会が誕生していった。
まさが毎日、朝から夜遅くまでおたすけに走り回る一方、義雄は、神殿の火ばちで事情や身上の悩みをかかえた人々の話にじっと耳をかたむけるのが日課であった。
振り返ってみると、上々級・都南の神殿普請に伏せ込む中に大崎の布教所(後の愛昭都分教会)を御守護頂き、南愛の神殿普請に精一杯つとめると、木造二階建ての新館が出来上がった。また、「一億一万一千」のかけ声のもと、必死の活動をつとめ切った教祖七十年祭には大食堂が完成した。
まさは立派になった教会中をながめ「誰に頼みはかけねども、でけたちきたるがこれ不思議」と、自然と御神言を口ずさむのであった。
昭和四十四年四月、春國が三代会長に就任。その翌年、大教会の神殿普請が打ち出された。義雄は神殿の親柱の献木を心に定め、愛昭部内一丸となって用材捜しに、また御供のおたすけに日夜奔走していた。
そんな中、義雄は病床についてしまった。まさは最後まで身上の御守護を願いつつも、後髪引かれる思いでおたすけに走りまわっていた。しかし義雄は、完納を目前に、親柱にふさわしい木曽檜の写真を満足げにながめながら静かに出直した。
その後、まだ見つかっていない残りの用材がまさの夢に現れた。すると夢の通りの用材が次々と見つかり、心定め通り、親柱を献納することができた。
献木の日、まさは檜の横で義雄の遺影を抱えて涙するのであった。
昭和五十一年三月二日、三代会長・春國が大教会神殿奉仕の帰途、突然出直した。
まさにとってこれ以上辛いことはなかったが、ある教友から「教祖はどうだったかね」とたずねられ、ポンと手をたたいた。まさは「あぁ教祖、教祖のひながたを忘れておった。教祖の晩年はどうだったか、夫にも息子にも先立たれ、孫のたまえ様といそいそとお通り下されたではないか」と、心を再び奮い立たせておたすけに奔走した。
まさはそんな自分を「私は消防車と同じだ」と称した。教祖がお待ち下されていると思うと、じっとしておられないので毎日走りまわっているというのだ。
昭和五十八年五月、真柱様が愛昭分教会に御巡教下さった。
まさは親しく真柱様と談笑させて頂き、握手までさせて頂いた。
それ以来、どこへ行っても、「ワシは真柱様とこの手で握手したんだぞん」と、誇らしげに皆さんと共に手を取り合って喜びにくれる晩年を過ごした。
常に「病むほどつらいことはない。わしもこれからひのきしん」と説いてきたまさは、平成六年五月十五日、奇しくも全教一斉ひのきしんデーの朝、「有り難い、有り難い、勿体ないこっちゃ」と、皆に手を合わせながらコトンと静かに息を引き取った。
享年九十六歳。
おかあさん(花井まさ)が私達に残してくれたもの、それは立派な建物でもなければ広大な敷地でもない。
それは火にも焼けない、水にも流されない、教祖を慕って通られた、たすけ一条の道そのものである。